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山陽小野田市市議会議員 高松ひでき

定数削減の裏に潜むもの

2012年7月 1日 11:46 高松ひでき 記す

議場0704

地方議員の場合、選挙時の公約で結構「定数削減」を掲げるものが多いものです。特に右も左も分からない新人議員ではなおさらなのです。

私も一期目はこの「定数削減」を正論として堂々と公約として掲げ、任期中に運良く定数削減の公約を果たすことなりましたが、 いま考えると厚顔無恥でありそれゆえ熟慮が足りなかったと反省しきりです。

当選後は当時の定数適正化の委員会には所属をしていなかったのですが、その時の委員会の考え方は 「世論の風が強いので何人かは削減をする必要がある」から始まりました。そこに横たわるのは議会としての議論を割愛し、 議会自らが政治機関としての使命を放棄した市民迎合、いわゆるポピュリズム的な決着でした。 クレバーな判断をしなかった議会だったとも言えます。

 

「定数削減」は市民受けするものです。

しかし市民受けと市民の利益は必ずしも一致するものではありません。

市民受けという意味では「定数削減」を公約に掲げると選挙に当選しやすくなると考えるものです。

それは、選挙という点から見ると市民の利益ではなく自分の利益のためだとも考えることができるのです。

 

私の一期目の選挙は平成17年。

折しも平成の大合併の大きなうねりの中、広域合併か1市1町の合併かでまちを2分する住民投票が行われたあとのことです。

当時の私から見た議会は、「仕事をしていない」「役に立たない」「信頼できない」 などネガティブなイメージであり批判の対象でしかありませんでした。

議会傍聴もしたことがなく、会議録も読んだこともなく、 議会のあり方も知らない当時の私のある意味偏見に満ちた議会像の行き着く先は短絡的な感情論である「議員定数削減」だったのです。

当時は、議員定数削減の論理的思考などあるわけがなく非常に情緒的、感覚的なものであったのです。もちろん今はそうではありません。

 

確かに今でも「仕事をしていない」「役に立たない」議員が存在するかもしれません。

しかしそうであってもすべての議員は市民による選挙で選ばれており、 その様な議員が存在するなら議員を削減してしまえという発想はいささか乱暴であり、有権者に対する冒涜であったような気がします。

もっとも議員定数を削減してもその様な議員が落選するとは限らないことは少し考えれば分かったことですが。

 

そうすると何故、今組織的に定数削減を訴えるのでしょうか。

その利益は誰のためのものなのでしょうか。

わかりません。

 

市民感情としての「議員定数削減」は、当時の私がそうであったので良く理解できます。感情論としては当たり前とも言えます。

しかしながら議会が簡単に「議員定数削減」に向かうことはいかがなものかと考えます。

思考しなければいけないのは、「何故その様な市民感情が芽生えるのか?」と言うことではないでしょうか。

その視点がなければ、永遠に「議員定数削減」が続いていきます。 その先に待ち受けるものは議会不要論を中心とした議会制民主主義の崩壊でしょう。

 

市民感情の原点は議会や議員のあり方そのものであるはずです。

議会がしなければならないことをやらずして何が変わるというのでしょうか。

議員を削減することによって何が変わるというのでしょうか。

議員定数削減を訴える議員には住民に選ばれた代表としての高い視点と広い視野があるのでしょうか。

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